2013年09月19日

いつものあそこ

母親から頼まれごとをされました。
「パパ。お父さんを、いつものあそこまで車で送って行ってもらえないかな」
なんで母親の隣にいる父親が直接言ってこないのか、不思議ではあるのですが、
それはとにかく、相も変わらずの母親らしい言い方です。

“いつものあそこ”
そう言うからには、週に1度、少なくとも月に1度の頻度で出かけている、
そんな場所を指しているんだろうなと、普通なら考えるはずです。
しかし相手は母親です。こんな普通の推理は根本から木っ端みじんにされます。
私、何度も痛い経験をさせられているので、分かるのです。
あなた、それを“いつものあそこ”と表現したのか? えー? になるのです。
だから、「どこだろう」なんて考えてはいけません。無駄になるだけですから。

「いつものあそこって、どこのことを言ってるんですか?」
素直に母親にたずねます。
「ほれ、あそこよ、あの、お寺。何度も送ってくれたじゃないの」
ようやくヒントを与えてくれました。お寺らしいです。
2回ほど送って行ったことのあるお寺が、唯一思い当たる場所でした。
2回という回数は決して多い回数ではないのですが、一応複数なので、
母親からすれば“何度も”に該当するのだろう。そう思ったので、
「それって、会津高校の近くのお寺ですか?」
「違うわよ、ほら、いつも送ってくれたじゃない」
そこでようやく、送ってもらう当の本人である父親が口をはさんできます。
「いや、いいんだ。そこだ。会津高校の近くでいいんだ」
自分が間違いだったということに照れることもなく、母親が父親に言います。
「………あら、そうなの? “いつものあそこ”って、あそこじゃなかったの?」
「いや、会津高校の近くでいいんだ」
「じゃあ、“いつものあそこ”じゃないじゃないの」
「………あんたが言ってる“いつものあそこ”っていうのは、
ほれ、なんだ、ほら、あそこの近くの寺だべ」
「そうよ、あそこの近くのお寺に行くんじゃなかったの?」
2人が言う“あそこの近くのお寺”が共通の場所であるかどうか、
そんなことはお構いなしに父親と母親の会話は続けられます。
「今日は終わった後に会食があるから、会津高校の方なんだ」
「なぁ〜んだ、私はてっきり“いつものあそこ”だと思ってたわよ」
出来れば、私に頼む前に2人だけで済ませておいてほしい会話なのですが、
ようやく結論がでたようです。父親ではなく、再度、母親が私に言ってきます。
「パパ、今日は“いつものあそこ”じゃなくて、会津高校の近くだって」
私、なにも返事をしませんでした。
ちょっと他のことを考えていたからです。

『会津高校の近くの寺まで送って行く。それは分かった。
じゃあ、“何度も送った”という“いつものあそこ”のお寺って、どこだ?
あそこの近くの寺では、あそこがどこか分からない以上、いくら考えても無駄。
たった1回送って行っただけでも、この人は“何度も送った”と言ってくるのだろうか。
そうなってくると、この人の口から出る単語は何一つ根拠がないものになるな。
でもさすがに、少なくとも1回は送って行ったことがあるってことだろう。
俺、他の場所のお寺に送って行ったことなんて、あったかな。
……まさか、“確かに何度も送ってもらったじゃないの。佐々木さんに”。
送って行ったのは俺じゃない、そういう可能性もあるんじゃないのか。
……いかん、いかん、無駄なことだって分かってたはずじゃないか。
母親の言う言葉の意味を考えても、なんの答えも出ないんだった』

ちなみに、考えることを放棄するということは、悟りを開くと同じくらい難しいことです。
posted by 貞吉 at 21:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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